このハナモゲラボ自体が森の中、というデザインコンセプトなもんで
普段の生活もどっちかというと山寄りの生活なんですよ、ええ。

そういえばもうどれぐらい長いこと海を見てないだろう。
今年は里帰りしなかったんで、瀬戸内海を見てないし
姫路への仕事の時も、わざわざ山寄りのコースを自ら選んで走っているし。
少なくとも2013年は一度も海を見ていない。
ブログを毎日書いてるのでそれは確実。

海が見たくなったんだ、とふらりと車に乗って出かけて
「うっわー、さっむ!むっさ寒い!」とぶるぶる震えながら帰ってきて風邪引いた、みたいな
アホな若者時代もありましたけれども、もうあんな事ってしばらくは出来ないんだろうなと思う。

2年前かな確か。
震災で卒業式が中止になり、その代わりにメッセージを掲載したのが話題になりました。

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)
http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

このメッセージ、僕はとても感銘を受けたんですけどもこの中の

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。

言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

というのは確かにそうだよなあ、と思うんですな。

池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。

「今日ひとりで海を見てきたよ。」

そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

確かに嫁さんに胸はっては言えませんわね(笑)
僕は大学には行ってない(それどころか仕組みもよくわかってない)けども
この「大学」というのを「若さ」に置き換えても納得だよなあと思うわけです。
好きな時に好きな行動が出来たわけですし。
ガソリン尽きるまで北に走る!とか言うて、夜に日本海沿い走ったりしてたもんなあ。

しかし、「今は行けない」というのを「家庭があるせい」と短絡的にとってはダメ。
もし自分に置き換えてみて「今日海に行ってきた」と嫁さんに告げたとしても
「へええ、よかったなあ」と言ってくれるだろうという確証はあるんです。

でもなぜ言わないか、というとそれは相手への思いやりですよね。
これを「不自由」と取ってしまう人って、恐らく自由を手に入れたとしても
何一つ出来ないし、何も残せないような気がします。

今は一人で動くよりも、同じ物を共有したい相手がいるので
そっちが優先されるだけの話。

正直、一人ならもっとムフフな事がいっぱい・・・・・ん?誰か来たようだ・・・