自らをおっさんになったと自覚する瞬間というのはいくつもありまして
若人の言ってる事に対して「ああ、そんな時代もあったな」と
まるで中島みゆきのような心境に達したりする時もそのひとつ。
若人とは「わこうど」であって、決して失踪する若人あきらの事ではありません。

最近、よく話題の「意識高い系」という人たちを
傍観者の如くぼーっと見てても、別に新しい方たちだな、とは思えません。
ああいう方たちはいつの時代もいたのです。

「意識高い系」については下記のサイトをご参考に。

「意識高い系」は病気なのか?
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1355822708026.html

「僕(私)は~~~と思ってます」と高らかに宣言するのは別に間違っちゃいないけども
その前文にマイナス要素を持ってくる人というのは
今まで見てきた人たちでは間違いなく志半ばで脱落していってるなあ、と思うのですよ。

僕の周りにはWeb関連のお仕事、そして音楽関係のお仕事の方が多いですが
例文としてはこんな感じです。

様々な困難もあるだろうし、色んな事を言う人もいるけども自分は絶対やります!」

自分は考え方のコツとして
「電話しながらテレビ見てたらどっちも頭に入らないから、どっちかにしよう」と
思ってまして、普段からマイナスな事は意識して考えないし言わないようにしてます。
そりゃ年齢なりに心配事なんてたくさんありますが、一瞬考えて忘れますw

題名だけしか知りませんが「思考は現実化する」でしたっけ?
そんなんありましたよね、確か。

それを先ほどの「宣言」に当てはめると
「やります!」という以前に「継続は困難である」と考えてるわけですから
どんどん自分をそっちの方向に現実化させているわけですよね。

「やりたい!」という楽しい気持ちを「やらねばならぬ」という使命感に置き換えて
毎日過ごしている人ってそれこそ長州から見た若き日の前田と同じで
「ギスギスしてる」としか見えないですわね。

そもそもお前は何と戦ってるんだ、と問いかけたくなったりしますけども
おっさんとしては、まあまあそんな肩肘はらいでも、としか言いたくありません。
なぜかというと油断すると「なぜ自分はこれをやらねばならぬのか」という
全然おもしろくもない悲壮感あふれるお話を延々と聞かされるからです。

「意識高い系」の悲劇としては、昨今のSNSの発達で
このような発言に「いいね!」と付き合い程度でも同調されてしまう事です。
これを「賛同者」と勘違いしてしまうと、もはやもう後戻りはききません。
何度も何度も「行く道は困難だけども!」と書いて、自分を追い込んでしまいます。

それを目にした人は果たして「この人がんばってるな!」と思うんでしょうかね。
自分ならそんな切羽詰まった考えの人がいい仕事が出来るとは到底思えませんし
また何か頼もうか、なんて絶対に思えません。
逆の立場になって考えてみればよくわかる話なんですけども。

色んな困難をわざわざ口にするって事は
「それが出来なかった時の予防線を前もって張っている」としか世間は見ちゃくれません。
お仕事の世界は「出来るか出来ないか」という結果に対してしか評価は得られませんから。

親父は「戦う相手を間違えるんじゃない」と大人になる前の僕に言ってくれましたが
まさにこれはこの事だったんだな、と思います。

弱気と向き合ってそいつとやりあうぐらいなら、
そいつをさっさと忘れてしまった方が本人も周りも幸せになれますから。

ギスギス、は本人も周りも誰も幸せにしないんですしね。

http://www.youtube.com/watch?v=KQlVCCQPv2Y

ネット、そしてソーシャルメディアの発達で僕が一番危惧しているのは
「弱気をシェアできる」というこんな部分なんですよねえ。
昔ならそんな共感者は自らはねのけてたはずなのに、今はワンクリックですからね。